小寺政職が城主だった御着城跡の歴史




小寺政職が城主だった御着城跡の歴史

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御着城(ごちゃくじょう)は、 かつての播磨国飾東郡(現在の兵庫県姫路市御国野町御着)にあった播磨守護赤松氏の家臣・小寺氏の居城です。

 

別名・茶臼山城、天川城。

 

 

御着城の築城については、永正十六年(1519)に小寺政隆が築城したと云われていますが、昭和五十二〜五十四に行われた発掘調査で建物の礎石や瓦、井戸、石垣、土塁、内堀などのかつての御着城の遺構が発掘されました。

 

この発掘調査による報告では、御着城が14世紀後半〜16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ、城内に山陽道や城下町をとり込んだ、いわば惣構えの平城ということが判明しています。

 

また発掘調査により嘉吉年間(1441〜44)にはすでに居構らしきものがあったらしく、明応年間(1492〜1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能をもった城郭として機能していたこともわかりました。

 

 

 

 

 

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戦国時代に入ると、御着城の小寺氏を含む播磨の豪族は西の毛利氏、東の織田氏といった大勢力に挟まれ、単独での存続は難しく、どちらかの勢力に味方することで存続を図る様になります。

 

そんな中、天正5年(1575)織田氏の中国地方攻略の一環で羽柴秀吉が播磨へ侵攻しようとしていた時、御着城主・小寺政職は家老の小寺官兵衛孝高(黒田官兵衛孝高のこと)の進言により、織田氏に味方することを決めます。

 

しかしその後、織田氏に付いていた三木城の別所氏や有岡城の荒木村重が織田氏から離反して毛利氏に付くとこれに同調。

 

これ以後、小寺氏は織田氏から敵とみなされ天正七年(1579)に羽柴秀吉の攻撃により落城します。

 

その後、秀吉重臣の蜂須賀正勝(小六)が一時的に接収した後に廃城となりました。

 

ちなみに江戸時代には御着本陣が置かれていたそうです。

 

 

 

 

 

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現在では国道2号に城跡は分断されており、北側にあるかつての本丸跡付近は、姫路市役所東出張所や御国野公民館、そして御着城跡公園等になっており、南側は民家や小公園などになっています。

 

小公園には小寺氏を祀った小寺大明神祠があり、城址公園西側には黒田孝高の祖父・重隆の廟所があります。

 

 

 

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