姫路城に残る秀吉が城主だった戦国時代の石垣
姫路城二の丸のレポです。
その前に秀吉が城主だったころの戦国時代の石垣が姫路城に残っています。
場所は二の丸上山里曲輪の下段の石垣です。
この石垣は二の丸の石垣ですが、料金所に入らなくても外から見る事ができます。
↑これらがそうです。
石垣の工法は野面積み(のづらづみ)という自然石を組み合わせて築いたもの。
キレイに整えられた石垣ではなく、無骨な印象がありますが、私は好きですね。
さて、秀吉は天正八年(1580)に黒田官兵衛の居城である姫路城に入城し、翌年の天正九年(1581)に三重の天守を築いたといいます。
また姫路市教育委員会の看板によると、秀吉が黒田官兵衛に築城を命じた書状が残っており、この石垣も官兵衛が携わった可能性があると指摘しています。
ということは、この石垣も数百年間残っているという事になりますね。
何回か石垣一部を補修工事をしたみたいですが、かなり貴重なものでこれからも残しておいてほしいと強く思いました。
↑秀吉時代の石垣の近くにある古い墓。五輪塔です。
これらは石垣の修築工事の時に石垣の中から出てきたものです。
姫路城がある場所は、昔、『姫山』と呼ばれており、康治二年(1143)に称明寺というお寺が建立されました。
それ以後、この地方の有力者や役人の墓が称明寺に多く建てられたそうですが、姫路城を築くときに称明寺はふもとに移築されましたが、石仏や墓石はそのまま石垣に利用されました。
当時、この地域には石垣の石材に適した石が少なく、また石垣工事も大規模なものだったので、石の調達にはかなり苦労したみたいです。
本丸のぺ―ジで説明していますが、町の老婆が寄付した石臼を秀吉が喜んだくらいですから、とにかく石が少なかったのでしょう。
↑五輪塔の場所から見上げると…
姫路城二の丸の【チの櫓】が見えました。
では、二の丸の中も見てみましょう。
詳しくは次のレポにて!
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